2005年12月31日

ひろ子が二階で

雨のふりこまない西側の窓から線路の方を見ていると、母があがって来た。ひろ子と並んで線路、その先の竹藪、山裾へと視線をやった。真面目に気づかわしげにその方角をみた。その竹藪のかげに水無瀬川の、大きい河床がかくされているのであった。
 六七年前の梅雨時分、ひろ子が来ていたとき、やはり雨がつづいた。刈りのこされた麦が、みんな黒穂にくさって、この窓から見わたすと、河床からあふれて麦畑を浸した大水が幾日も鈍く光った。黒いくさった麦の穂先だけが、その鉛色に光る水の上にそよいでいた。
「ほん、大難儀いのう。山の方で、みんな樹を伐らせよって、おまけに、根っこまで掘りおこしたから、水のとめどがないようになりよった」
「こんどは、いいあんばいにまだ、あっちの畑まで水が出ておりませんね」
「それで結構でありますよ」
 石田の家は、街道に沿って埋立てたせまい三角地の上に窮屈に建て増し、建て増しされた家であった。廊下の中に庇合(ひあ)わいなどがあった。こんなに降ると、仏壇のおいてある戸棚の中が大もりになって、バシャバシャしぶいた。家じゅうそこここに、盥(たらい)、バケツがもち出された。昭夫と治郎とは、その盥をめぐり、バケツのまわりをかけまわっている。子供の叫び声と吹きつけられる大雨のザッ、ザザッという天地いっぱいの音をきいていると、ひろ子は子供時代を思い出した。大雨のときうちの中はいつもうす暗かった。すこしずつすかした雨戸の間から雨がふりこんで古い廊下がぬれていた。ひろ子と二人の弟たちとは、小さい三つの顔を一つずつ雨戸のすき間から覗けて、誰が一番長く雨に顔をたたかれて平気でいられるか、競争をした。それから、濡れている廊下を片足ですべった。昼間の薄ぐらさ、ひどい大雨の音。むし暑さ。それらは、稚いひろ子を興奮させ、どきつかせた。子供らのおまるのわきに、夜じゅう豆ランプがついていて、いつもぼーっと雨戸についた地震戸の棧を照していた。
名古屋風俗
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2005年12月29日

つや子も髪をかきあげながら出て来た。

「駅から二里も歩かんならんのに、この雨では、ほん、せんのうありますわ」
 おそい汽車に、と思っているうちに、十時になり正午になり、午後になって雨は一層ひどくなった。
 縫子は、ひろ子のもんぺのほころびを縫ったり、二人の子供らの腹がけをこしらえたりしてやりながらも、気にして折々雨にかすむ外を見た。
「わたし、かえってまた出直そうかと思うけれど」
「どうしてさ。汽車にものれないのにこの雨を帰れるものか、歩くの?」
「……いて、いいかしら」
「誰にわるいのさ」
「…………」
「そうあれこれ考えないものよ」
「…………」
 小声でそんな短い言葉が交されるとき、母もつや子もそのあたりにはいないのであった。石田へゆくと、挨拶を終る間もなくきっとつや子が、何時の汽車でおかえりますの? ときくんだものと親戚の若い女たちは歎いた。つや子は体が弱いせいか、その体のよわいということに気負けして暮しているせいか、直次のいるときから客ずきでなかった。人の出入りもない今、食事ごしらえも感興なく、その場のしのぎという風にされていた。
 大降りの勢はちっともゆるまず、段々夕方が迫って来た。
「どうで! ほんほん、よう降りよる! つや子はん、また停電なとせんうちに、御飯しまうことで……」
 睡眠の奥にまで雨脚がとおっているような一夜が明けた。
 きのうは大雨の裡に生々していた自然の眺めもちらばっている家々も、きょうは連日の重い雨に濡れふやけて、力なく、ぼんやり色が流れて見える
池袋風俗
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2005年12月28日

「つや子さんの気がすむ方にしましょうよ、ね」

「……………」
「こんどは、御苦労でも、ひろ子はんに行んで貰おう、いくらかしゃんとした話もせまあじゃ、のう、つや子はん」
「はア、それがよろしうあります」
 相談がきまった。登代が、ねそびれて泣く治郎をおんぶして、駅へ切符の工面に出かけた。
 その母が帰り途にかかったと思われる頃、雨が落ちて来た。
「降って来たね、あした雨かしら、困ったこと」
 縫子も立って来て、小さいパンツの干してある低い軒先から雨脚をみていたが、
「降りよりますで――これは……」
と、土地ものらしい確信で云った。
「お母はんに、傘もっていて上げなきゃ」
「そうだわ」
 ひろ子が土間をさがしたが雨傘らしいものは見当らなかった。
「つや子さん、雨傘どこかしら」
 姿の見えないつや子をさがして呼んでいるひまに、
「その辺に、何ぞありましょう」
 縫子が、大きい膳棚の横から古い番傘を一本とり出し、それをもって迎えに出て行った。

        十

 灰色の雨雲が強い風に吹きたてられて、むら立ちながら山の峯々を南から北へ走っている。
 雲脚が迅く濃くなるたびに、トタン屋根に白いしぶきを立てて沛然(はいぜん)と豪雨が降りそそいだ。大ぶりの最中は、つい近くの山鼻さえ雨に煙った。どっちの道にも朝から人通りが絶えている。
 残暑にあぶられてギラついている東京の焼跡から来たひろ子に、夏の終りのこの大雨は、むしろ快よかった。いかにも、山のすぐあっちには広い海のある場所らしく、たっぷり、惜しげない、雨のふり工合がいい心持であった。
 けさ、四時すぎの汽車にのるはずであったひろ子と縫子は、一旦その時刻におきて、どうする? と相談した。電燈のついている台所の雨樋をむせぶように鳴らして、もうそのときから大降りであった。
「どうなろういの、この雨で……」
 治郎をだいて茶の間にねている母が声をかけた。
「日よりみてからのことにすることでありますよ」
大阪風俗
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2005年12月26日

「はあ」

「そのとき、本部で、三次たらいうところのこと云わなんだか」
「さあ……」
「縫子はんが夢を見たといの、つろうて、さがしに行こうかと云うてじゃよ」
 つや子は、薄すり凹んだ瞼をあげるようにして、縫子からひろ子、母へと視線をうつした。
「本部でも、云うてでありました。鳥取県の三朝(みささ)あたりまで分散治療に送ってあるよって、個人でさがしたら、一年かかってもよう分るまいて……」
 豊田村から又二里近い山下の国民学校に移った本部の残務整理責任者は、つや子に向って、石田直次軽傷と記入されている一冊の帳簿を開いて見せた。又別のもう一冊を出してみせたら、それには、石田直次の項に、行方不明と記載されていたのであった。
 ひろ子は、雲を掴むような話をきくにつけ、自分で一度豊田に行って来ようと決心していた。きのう着いて、つや子と母との話すのをきいているうちその心がきまった。
「じゃ、いっそのこと、こうしましょうか。私は、ともかく一遍どうしても豊田村へ行って調べたいから、明日、縫ちゃん行かない? そして、三次(みよし)のこともよくきいて、もし手がかりがありそうなら、まわって来てしまうわ、いかが?」
「――えらい難儀じゃのう」
 母が気づかわしそうにゆっくり呟いた。
「行ってもろうたら、それにこしたことはないけれど……ほん、東京であんな目えみて、ここへ来て、ほん……」
 たよりないつや子と母との話だけを又伝えにして、直次さんについてはもう諦めていられますと、重吉に書く勇気はひろ子にないのであった。
 それとも、つや子が自身で縫子の夢にきこえた三次(みよし)というところを訪ねて行きたいこころもちだろうか。
「どうする? つや子さん。自分で行かなくても気がすむこと?」
「さア……」
福岡風俗
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2005年12月25日

思わずそう云って立ち上ったとき

ひろ子は、不思議な感じを与えられた小声のしらせのことは忘れた。
 母のあとについて茶の間へ降りてみると、ガラス障子のところで、縫子が一人坐っている。もうよっぽど前から、そこにそうやっていたように、ぼんやりした所在なさをあらわした姿で坐っている。ひろ子は、また奇妙な気がした。
「どうしたの縫ちゃん。いつ頃から来ていたの」
 いぶかしそうに立ったままいきなり訊くひろ子を下から見上げるようにしながら、縫子はもち前の落付いた口調で、
「さア、小一時間も前に来たかしら」
 そして、懐しそうににっこりした。
「知らせがいったの?」
「いいえ。わたしお姉さんが来ておられることなんか、ちっとも知らなんだの。昨夜、直次さんの夢を見て、気にかかってせんないから、一寸しらせに来たら、来ておられるって……」
 縫子は、一里半歩いて、来ているのであった。
 夢で、直次がミヨシというところにいる、という話をしているのをきいた。さめたあとまで、あんまりミヨシという土地の名がはっきり聞えていて忘られないので、近所で旅行案内をかりて地図をみたら、
「不思議でありますねえ」
 縫子はしんから偶然の符合をおどろくように濃い眉を傾けてひろ子を見た。
「ほんにミヨシというところがありました。三次とかくの。芸備線で二時間ほど広島から行ったところに」
「ふーん。そんなことってあるものなのかしら。――そいで、どういうところなの、その三次(みよし)って……」
「病院はありますって」
「陸軍病院?」
「そうじゃないらしいけど……。もしかしたら、わたしつや子はんとつろうて行って見て来ようかと思って」
 黙って熱心にきいていた登代が、
「その三次(みよし)は、つや子はんがしらべに行きよった豊田村とはまるで別の方角のところじゃろ、のう」
「あれは万部線でありましょう」
「の、つや子はん、つや子はん、ちょいときてみさいの」
 ねむりかかった治郎をあぶなっかしくおんぶして、つや子が土間から上って来た。
「のう、あんたが、先度ゆきよったのは豊田村じゃのう」
広島風俗
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2005年12月24日

濡れているうちは

余り薄くて色らしい色も見えないインクで網走への手紙をかきながら、これから帰るのは重吉であろうか、それとも七年の歳月を前線で経ている進三であろうか、とひろ子は考えた。新聞やラジオは、八月十五日から一ヵ月たったその頃、南方の島々で、ちりぢりばらばらに武装解除をしている日本の部隊名をつたえていた。進三の部隊長が、どうか普通の分別をもった男であるように。ひろ子は切にそれを祈った。敗北の噂をきいて、食物もない山中の獣の穴へ部下を追いこむ愚かものでないように。進三は重吉とまたちがったやりかたで人によろこびを与える若者なのであった。
 母が、いつにもないそっとした様子で梯子をあがって来た。机に向っているひろ子を見て、
「おや、あんた、昼寝してじゃないの」
と云った。
「いいえ。おやすみになる? 枕出しましょうか」
「ええ、ええ」
 言葉をきって、
「縫子はんが来ておってでありますよ」
 低い声で何となしひろ子の顔色を見るように告げた。ひろ子は、奇妙な気がした。従妹の縫子は、ひろ子の東京の小さい世帯に一年半も一緒に暮したし、互に気があっていて、ひろ子がここへ来て縫子が訪ねて来るのは全くあたり前と思えるのであった。
「まあよく来たこと!」
横浜風俗
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2005年12月23日

その見送りにひろ子が来たとき

もう昭夫が生れていて、つや子のおかあはんが、おばあちゃんにかわっていた。話のはずみにふとつや子が、婚礼の記念写真のとき直次が動けなかったので、どうやら足が悪うなっているのではないかと思いよりました、と云って笑った。
「それどころか立派な脚があったでしょう」
 ひろ子も笑ったが、つのかくしのかげに伏ったままのようにあったつや子の睫毛(まつげ)の下から、ほんの一刹那のそのことが見のがされていなかったのにおどろいた。花嫁の神経の働き工合が察しられた。
 ひろ子のこころもちでみると、重吉の母は、下駄のうしろを引きずって歩くつや子に、こわばった調子でおばあちゃん、おばあちゃんと呼び立てられ、二人の孫をからませられるにふさわしい人ではなかった。ものわかりのよい姑(しゅうとめ)であろうとする登代の忍耐と努力。二人の子もちだというところから出る体の弱いつや子の落つきかた。
 重吉は、どう話されたら、このような生活の細部の感情までを理解するだろうか。
 窓から見ていると、治郎を紐でおんぶした母が、堤をのぼって新道へ出て行った。永年子供をおぶったりしたことのない小肥りな母の背中におんぶの形はちっともなじまず、それを見るひろ子の目を悲しませた。このこころもちを、重吉は、どう話されたら分るだろう。重吉はすべてを知らなければならない。ひろ子はそう思った。母とつや子と二人の幼い息子たちの生活のネジをまき直し、幸福をとり戻すために、重吉は必要なすべてのことを理解しなければならない。何故なら、母やつや子にいるものは、その一声によって自分たちの感情の整理までをして来た男の言葉、男のさしずである。しかし、その男がなくなったとき、女はどうしたらいいのだろう。女たちは習慣をかえなければならない。女だけでやってゆけることを学ばなければならない。しかもこの際、母とつや子が、その新しい必要を理解するために必要なさしず、言葉は重吉からしか期待されなくなっているのであるから。
西川口風俗
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2005年12月22日

昔、ひろ子が駒沢の方に住んでいたとき

低い竹の四つ目垣越しに隣家の菜園があって、その奥に住居の縁側が見えた。一人のおじいさんがそこに住んでいた。嫁に当るひとが、おじいちゃん何々ですよ。おじいちゃん、こうですよと、日に幾度となく呼んだ。その声は、明るい午後ひろ子が机に向っている反対側の室まで手にとるようにきこえて来た。その時分ひろ子は石榴(ざくろ)の樹と、子供の土俵あとのある庭に向って小説を書いていた。そして、折々その声にじっと耳を傾け、あの声に愛があると云えるだろうかと思った。一日に呼ぶ度数が多ければ多いだけ、それは単調な生活の倦怠の中に抑えられた女心の苛だたしさをひろ子の心につたえたのであった。
 つや子の嫁入りの晩、ひろ子はその田舎町の料亭の座敷で、母のとなりに坐った。高島田に結び、角かくしをし、六月初旬に冬ものの黒い裾模様を長くひいて、仲人に片手をひかれた花嫁が立ちあらわれたとき、ひろ子は何とも云えない恐縮な思いがして、単衣の紋付の下に汗をかいた。角かくしの重い首をうなだれて入って来た花嫁に先立って、いくつもの箱を重ねた島台が恭々(うやうや)しく運ばれた。それは、花嫁からの土産であった。精一杯身を飾り、土産の品までもさし出して、見知らない石田の家の嫁になって来た若い一人の女の運命に対して、ひろ子は習慣の力のつよさというものに威怖を覚えた。
 となりの室におかれた古いレコードが高砂やを謡っている間に盃がとりかわされ、記念写真が、同じ部屋で撮された。北支から帰還して二十日ほどたったばかりだった直次は、これも冬ものの黒羽二重の紋付に仙台平の袴で、汗にまびれながらも美しい若者ぶりであった。写真をとるというとき、足が痺れて立ち上ったまま動けなくなった。ひろ子は、いそいでそこにあった椅子にかけさせた。写すときは、その椅子に花嫁がかけて、仲人であって同時に写真師でもある人がその裾の工合を直したりした。直次の婚礼の次第には生真面目さとともに田舎の町らしい一種のユーモアがあった。
 一年後、直次に二度目の召集が来た。
韓国風俗
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2005年12月21日

ひろ子のこめかみをすべってつめたく苦い

渋い涙が、籐製の小枕におちた。戦争犯罪人という字句をポツダム宣言の文書のうちによんだとき、ひろ子は、その表現が自分の胸にこれだけの実感をたたえて、うけとられるとは知らなかった。ひろ子は、世界の正義がこの犯罪を真にきびしく、真にゆるすことなく糺弾することを欲した。

        九

「おばあちゃん、おばあちゃん」
 そう呼んでつや子が、母に何か云っている。おばあちゃんというようなよびかたは元来、ふっくりした優しいよびかけであるはずだのに、つや子のそのよび声には、呼ばれたもののこころを誘い出す暖いはずみよりも、押しつけるかたさが響いている。
 今度来て、ひろ子はそのことに気づいた。これまでもつや子は、おばあちゃん、又、おばあちゃんと、一日じゅう細かになかなかよく母を動かした。ひろ子は、冗談めかして、つやちゃんは甘ったれてよく働かせるのね、と云ったことがあった。まだ若いから、何いうてもたよりないのでありましょう。登代は気をよく説明していた。その頃の呼びかたは、同じおばあちゃんにしても、ちゃんというところに小猫のからむような甘みがあり、母の気質にとっては、そういう絡まりも快よいのであろうと思ってきいた。
 おばあちゃんという、軟い名をこわく呼んでいるいまのつや子も、呼ばれる母の身も、ひろ子にとっては気の毒にたえなかった。
仙台風俗
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2005年12月18日

「いもがええ」

それ助かった、という風に祖母と母親とが、
「何で、そんなら早うそう云わんのじゃろ」
と蠅入らずから、ふかした薯の皿をその前へ出してやるのであった。
 ひろ子が最後に来たとき、昭夫は生れて百日たったばかりの赤子だった。亡くなったお祖父ちゃんに似た色黒い面白い赤坊で、ちょこなんと抱いてとった写真を重吉のところへも送った。自分に子のないひろ子は、甥姪たちに特別な情愛を動かされ、注意をひかれるのであった。台所の蠅入らずの上に、陰膳をそなえていたときのまま直次の写真が飾られている。その写真で直次は浴衣がけで、あぐらをくんでいる。ゆったりと大きいあぐらのなかに、今よりずっと稚い頃の昭夫がまるっこく抱かれて、赤子のぽちゃぽちゃした顔に、可愛く眼、鼻、口をつけて、こっちを見ている。直次は、若い父親らしい表情で、口元をゆるめてとられているのであった。
 しんみりとその写真をみせ、父さんについて語り、昭夫の気分を落付かせてやろうと努力する根気もつや子にはないらしかった。日頃体のよわいつや子は、直次のいたときから、何かにつけ、どうせ長う生きられんのだから、と口に出した。
「間食させすぎると、きまったとき御飯たべなくなることよ。顔色のわるいのもそのせいかも知れないよ、十時と三時にきめたら?」
 この辺は、食糧が乏しくはなって来ていても、まだ食事とお八つとを規則だてられる位はたっぷりしていた。つや子は、しかし深くききしめる様子もなく、
「はア」
と答え、
「ほんに、じらばかりいうて……」
 寧ろひろ子への云いわけらしくつぶやいた。癇のきつい昭夫は、その癇を無意識のうちに鎮めてくれる男らしい人間的な圧力や生活の規律が女ばかりの暮しに欠けていることから、とめどなく荒っぽくなっているのであった。母と嫁とは、ほかに男のいない生活で左右から直次をとりかこんで暮して来た。そのように、今は癇のきつい昭夫のまわりを祖母と母とが左右からはさんで近づいては遠のき、一応口先で叱りつけては、あとで一層機嫌をとって暮している。
 横になりながらひろ子は台所の騒ぎをきいていて、中心になる男が奪われた一つの家庭の不幸と生活の破綻というものの複雑なあらわれをしみじみと感じた。戦争の災禍は、この「後家町」で石田の一家の生活の根太を洗った。じかな、むき出しな災禍の作用を現わしている。家財を焼かれた人々の損傷の深さを、ひろ子は東海道、山陽とのった汽車が西へ来るにつれて思いやった。けれども、戦争の真の恨みは、どういう人々のところにこそあるだろう。国体論はかくした方がいいでしょうかと不安げに訊いた片脚の白衣の人の瞳の底にあった。そして、「後家町」の、ここにある。日本じゅう、幾十万ヵ所かに出来た「後家町」の、無言の日々の破綻のうちにある。
関西風俗
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